[logo] Web連載「数学ガールの秘密ノート」
Share

第388回 シーズン39 エピソード8
読みながら、何を考える?(後編)

書籍紹介:『数学ガールの秘密ノート/数を作ろう』

『数学ガールの秘密ノート/数を作ろう』をアマゾンで見る

登場人物紹介

:数学が好きな高校生。

テトラちゃんの後輩。 好奇心旺盛で根気強い《元気少女》。言葉が大好き。

$ \newcommand{\TEXT}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\REMTEXT}[1]{\textbf{#1}} \newcommand{\REAL}{\mathbb R} \newcommand{\ZEE}{\mathbb Z} \newcommand{\SET}[1]{\left\{#1\right\}} \newcommand{\ABS}[1]{\left|#1\right|} $

図書室にて

テトラちゃんは、村木先生の《カード》に書かれていたベクトル空間の定義に取り組んでいる。

いや、ベクトル空間の定義というよりは数学の説明文の読み方に取り組んでいるといった方が正確かもしれない。

いまはちょうど、《である例》《ではない例》を作って、写像についての理解を確かめ終えたところだ(第387回参照)。

「じゃあ、写像の定義を確認したところで、村木先生の《カード》に戻ろうか」

テトラ「そうですね。あたしたちの《二人三脚読み》は、 『写像』が出てきたところで深みに入ったんでしたね」

テトラちゃんは、改めて《カード》を読み返す。

村木先生の《カード》

  • $K$ を、たいとします。
  • $V$ を、加法群(群演算を加法と考え、二項演算子を $+$ で表したアーベル群)とします。
  • $K\times V$ から $V$ への写像 $(a,x) \mapsto ax$ が存在して、
  • 以下の(1)から(4)のすべてが満たされているとします。

(1)$K$ の任意のげん $a$ と、 $V$ の任意の元 $x,y$ に対して、$$a(x + y) = ax + ay$$が成り立つ。

(2)$K$ の任意の元 $a,b$ と、 $V$ の任意の元 $x$ に対して、$$(a + b)x = ax + bx$$が成り立つ。

(3)$K$ の任意の元 $a,b$ と、 $V$ の任意の元 $x$ に対して、$$(ab)x = a(bx)$$が成り立つ。

(4)$K$ の単位元を $1$ とすると、 $V$ の任意の元 $x$ に対して、$$1x = x$$が成り立つ。

  • このとき、 $V$ を「$K$ 上のベクトル空間」といいます。
  • $V$ の元を「ベクトル」といいます。
  • $K$ の元を「スカラー」といいます。
  • 写像 $(a,x) \mapsto ax$ を「スカラー倍」といいます。
  • $V$ の元 $ax$ を「$x$ の $a$ 倍」といいます。

松坂和夫『代数系入門』を参考にしています。

「写像の定義を確認したときには『集合 $X$ から集合 $Y$ への写像』について考えていたけれど、 《カード》の記述は違うよね」

テトラ「はい。 『$K\times V$ から $V$ への写像 $(a,x) \mapsto ax$ が存在して……』となっています」

「うん、これを読み解くと——」

テトラ「ああっと、先輩! あたし・・・が読まないと、あたしの練習になりませんっ!」

「おっとっと。そうだったね。ごめんごめん」

テトラ「『$K\times V$ から $V$ への写像』と書かれています。あたしはこれを読み解くことができます。 一つ一つをこれまでていねいに確かめてきましたから」

  • $K$ というのは、体です。具体的に何かは述べられていませんが、体であることだけがわかっています。体というのは大ざっぱにいえば、加減乗除が定義されている集合です。たとえば実数全体の集合は実数体で、体の例になります(第384回参照)。
  • $K \times V$ というのは、集合 $K$ と集合 $V$ の直積です。これは $K$ の要素と $V$ の要素を組にしたもの全体の集合です。 $\times$ と書かれていますが、普通の掛け算と直接の関係はありません……でも、要素数を考えたときには掛け算と書きたくなる気持ちもわかります(第386回参照)。
  • ですから、『$K \times V$ から $V$ への写像』というのは、『集合 $K$ の要素と集合 $V$ の要素の組に対して、集合 $V$ の要素が一つ決まるような対応』のことですねっ!

「いいね! それでいいと思うよ」

テトラ「先輩っ! あたし、気付いたことがあります」

「?」

テトラちゃんの気付いたこと

テトラ「あのですね。もしもあたしがいきなり『集合 $K$ の要素と集合 $V$ の要素の組に対して、集合 $V$ の要素が一つ決まるような対応』という説明を誰かから聞いたとしたら、きっと何もわからないと思います」

「へえ……」

テトラ「その一言の中に、あまりにもたくさんのことが詰まっているからです。 初めて聞いて一回でさっとわかるようなものじゃあないんですね」

「うん、それはそうだね。確かに」

テトラ「一つ一つのこと……つまり『集合 $K$ の要素』とか、『集合 $V$ の要素』とか、『二つの要素の組』とかが具体的にイメージできていないと、 『集合 $K$ の要素と集合 $V$ の要素の組に対して、集合 $V$ の要素が一つ決まるような対応』といわれても困ってしまいます」

「その通りだね。どうしても『慣れ』が大事になる」

テトラ「はい……いいえ。ただの『慣れ』では駄目じゃないかとあたしは思います」

「おや?」

テトラ「う、うまく説明できませんけれど、ただの『慣れ』では駄目じゃないでしょうか。 たとえば先ほどの『集合 $K$ の要素と集合 $V$ の要素の組に対して、集合 $V$ の要素が一つ決まるような対応』みたいな表現があったとします。 一つ一つの単語や文字や用語の意味をしっかりと確かめないで、全体をぼんやりと聞いているだけじゃ駄目ですよね?」

「ああ、そういう意味か……うん、確かにそうかもしれない。 いま、テトラちゃんは『慣れ』という言葉の意味を明確にしようとしたんだね」

テトラ「あ、はい、そうです。 『慣れが大事』といわれると『細かい理屈はわからなくても、とにかく何度も繰り返すことが大事』という意味にもとれてしまいます。 でも、たとえば『写像』という言葉の定義は、 誰かに聞いたり、教科書や数学辞典などで調べないことにはわかりませんよね」

「そうだねえ……」

写像 $(a,x) \mapsto ax$

テトラ「《カード》を読むと 『$K\times V$ から $V$ への写像 $(a,x) \mapsto ax$ が存在して……』と書かれています。 ここで、$$(a,x) \mapsto ax$$が出てきました。 この部分も、あたしは読み解くことができますっ! こういうことですよね?」

  • $(a,x)$ は集合 $K$ と集合 $V$ の直積 $K\times V$ の要素……だと思います。
  • ですから、 $(a,x)$ の $a$ は集合 $K$ の要素で、 $x$ は集合 $V$ の要素です。
  • そして、 $(a,x) \mapsto ax$ というのは、 $(a,x)$ に対して、 $a$ と $x$ の積 $ax$ を対応させる写像……じゃないでしょうか!

「そうだね! いまのテトラちゃんの説明は正しいと思うよ。でも一つ気になることがあった」

テトラ「何か間違っていました?」

「間違いというほどじゃないんだけど、テトラちゃんは $(a,x) \mapsto ax$ に出てきた $ax$ を『$a$ と $x$ の積』といったけど、 その呼び方はちょっと引っかかるかも」

テトラ「えっ?」

$ax$ とは何か

「そう呼んでも悪くはないかもしれないけど、いちおうこの《カード》の説明では $ax$ のことを『$x$ の $a$ 倍』と表現しているね」

テトラ「……あ、確かにそうですね。あたしはあまり考えずに、 $ax$ は $a$ と $x$ の掛け算の意味なので $ax$ を『$a$ と $x$ の積』と呼んだんです」

「うん。たとえば $a$ と $x$ がどちらも数だったら、 $ax$ は積と呼んでもいいんだけどね」

テトラ「え?」

「$a$ は $K$ の要素で、 $x$ は $V$ の要素だから、 $ax$ は異なる集合の要素を二つ並べて表記しているだけだ——というのは意識した方がいいと思ったんだよ」

テトラ「ちょ、ちょっとお待ちください……ああ、確かにそうですね。 $a$ は $K$ の要素で、 $x$ は $V$ の要素ですよね。それぞれ異なる集合の要素です。確かに」

「うん、だからたとえば仮に $V$ の要素は太字で書くことにすれば、$$(a,x) \mapsto ax$$は、$$(a,\boldsymbol{x}) \mapsto a\boldsymbol{x}$$と表記できる」

テトラ「はい、そうですね」

「テトラちゃんはいま数学の説明文を読み解く練習をしているわけだから、 細かい話かも知れないけど、ツッコミをいれちゃったよ」

テトラ「いえ、ご指摘くださった方がありがたいです。実際、あたし、意識していませんでしたし……。 $ax$ をふつうに数の掛け算のつもりで読んでいたんです。 不思議ですね。ちゃんと一歩一歩読んでいるつもりで、 しかも直前に $a$ は $K$ の要素で、 $x$ は $V$ の要素だと自分で言っておきながら、 $$(a,x) \mapsto ax$$の $ax$ を見た瞬間にそれが頭からポーンと抜けちゃうんですから……」

「いやいや、そういうことはよくあるよ」

テトラ「でも $ax$ が積じゃないとすると、 $(a,x) \mapsto ax$ がいったいどんな写像なのかわかりませんよね。 だって、 $ax$ が何なのかわからないんですから!」

「《カード》の先読みをしちゃうと、 $ax$ のことは『$x$ の $a$ 倍』で、 $(a,x)$ から $ax$ を得る写像のことは『スカラー倍』と呼んでるね」

テトラ「いえ、名前のことではなくて……その $ax$ というのは、いったい何なんでしょう?」

無料で「試し読み」できるのはここまでです。 この続きをお読みになるには「読み放題プラン」へのご参加が必要です。

ひと月500円で「読み放題プラン」へご参加いただきますと、 420本すべての記事が読み放題になりますので、 ぜひ、ご参加ください。


参加済みの方/すぐに参加したい方はこちら

結城浩のメンバーシップで参加 結城浩のpixivFANBOXで参加

(2023年3月24日)

[icon]

結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki


『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

Twitter note 結城メルマガ Mastodon Bluesky Threads Home